甘い刺激、恋の味 






初夏の日のむせ返るような熱気に揺らめく視界。


前方へ向けた視線の先──この足を走らせる池袋線の路上で、見慣れた銀色のスーツに包まれた体躯が
うずくまっていた。


決して小柄ではないその背を丸く屈めて、男は片膝立てた足を両手で包むように抱え込んでいる。



「──20000系?」



名を呼ばれて振り返ったその顔は──横分けの黒髪が斜めに流れる額に汗を浮かべ、黒縁眼鏡の奥に潜む
双眸で俺を見上げた。



「・・・石を・・・踏ん付けてしまったようだ」



いささか間を置いてから呟き、奴は僅かに眉を寄せて苦笑する。


再び俯いた視線に従い線路を見ると、抱えた右足の下には周りのバラストに混じり、それとは違う細かに
砕けた石が散らばっているのが確認できた。



「置き石か?」

「分からない。走っていたらいきなり──だったから・・・」



前方へばかり注意を向けていた。甘かったな。


自嘲気味に笑って首を振る。揺れた拍子に額から流れる汗をその手はきゅ、と拭い上げた。


しっかり者の奴にしては珍しいミスだな。

思いながら自分も額に滲む汗を指先で掬い、まるで時が止まったようなその空間の前後へと視線を遣った。



「──とにかく、ずっとここで停まっていても仕方がないだろう」



石を踏んだだけであるとて事故に変わりはないが、それで遅延を起こすのはますます良くない。

続けてやってくるであろう列車の運転も案じられて、俺はぼんやりとしゃがんだままでいる20000系へ
促すように手を差し延べた。



「立てるか?」



続けて訊きながら掌を二、三度振り示すと、俯いていた20000系はふと顔を上げてその手に自らの手を重ね──



「・・・おんぶ」



その拍子に、上目遣いで俺を見上げた奴の口から短い呟きが漏れた。



「──はぁ?」



突然耳に入ってきた予想もしない言葉に、俺は思わずその取った手をぎゅうっと握り締める。



「・・・お前、そん・・・」

「──なんて、冗談」



焦ったように顔を歪める俺の傍らで、20000系はすっくと立ち上がって破顔した。



「冗・・・談、で言う事じゃないだろう。子供じゃあるまいし──」



混乱しながらも一瞬その願望を実現した図を想像してしまった自分が馬鹿馬鹿しくて目を閉じる。

ましてや、見上げてきたその不安げな顔が思いの外可愛らしかったから──などという呆れた胸の内は、
更に言わないでおいた。



そんな奴にも自分にも嫌気が差して握っていた手を振り解くと、20000系は尚も小さく笑いながら
「ごめんって」と軽々しい口調で謝罪の辞を呟いた。



「突然石なんか踏んづけて驚いてたところに──お前まで急に来たもんだから、二重に驚いて・・・」



言いながら、奴は具合を確かめるように枕木の上で足踏みをする。



「・・・でもお前が余りにも冷静だったから、ちょっと気に入らなくて脅かしてみただけ」



な?

口角を上げて念を押す。


ふざけた事を──思ったけれど、奴の顔に浮かべられたその笑みの裏には、やはりどこか突然の事態への
戸惑いを隠してわざと強がっているのが垣間見えるようで──俺はその足元へひざまずいた。



「本当に大丈夫なのか?」



右足の靴を脱がせ、持ち上げた足の裏を覗き込むと、20000系はバランスを崩して俺の肩へ手をついた。



「走れるか? 本当におぶってやろうか?」



今度は俺の方が上目遣いに訊く。

するとそんな状況に何を思ったのか、奴はさっと頬に朱を走らせて俺の手から足を引いた。



「──平気だ」

「ならいいが・・・」



屈めていた身を起こして軽く膝をはたく。

その手についた土埃も払いながら20000系に目を遣ると、その顔は苦々しげな表情を浮かべてちらりと俺を
見遣り──すぐに視線を逸らした。



「・・・意地の悪い奴だ」

「──? 何がだ?」



意地悪な冗談を言ったのはお前の方だろう。

言い返すと、奴は「あぁ、あぁ──」と更なる返答は言い淀み、ただただ頷いた。



「・・・悪かった」

「もういい。平気なら運行を再開しろ。後がつかえてる」



親指を立てて後ろを指し示す俺に、20000系はまた頷いてくるりと背を向け──そこで思い出したように
顔だけ再び振り向かせた。



「10000──」



横顔の口元に名を紡がれて視線がかち合う。



「ん?」



喉の奥で返事をすると、すぐに俯き加減に顔を戻した20000系は前方に立つ信号の進行現示を指差し確認して
言葉を続けた。



「仕事が終わったら・・・また、診てくれ」



爪先が枕木を叩く。

靴の裏に残る引っ掻いたような白い痕を一瞬覗かせ──それはトン、と軽やかに地面を蹴って走り出した。


助走するようにゆっくりと、そして次第に加速していく銀色の背中。遠ざかるそれを見つめながら、俺はふと
思い付き──懐へ手を伸ばした。




*****




ああ、恥ずかしい。


夏の気温に巻かれて走る頬の熱が上がっていく。


戯れにあんな事を呟いた自分の事も、無意識の素直さでそれを切り返してきた奴の事も。


驚いて、ほっとして。

その時お互いに湧き起こった感情はただそれだけなのに、ただそれだけでは済ませられなくなってしまった
俺達の関係は酷く面倒臭い。


けれどその居心地は、手離してしまうにはあまりに惜しかったので、俺は咄嗟の事とは言えあんな愚行に
走ってしまったのだ・・・ろうか。

分析しようと思い出すことすら、もう恥ずかしかった。



息が切れてきた各駅停車の体、そのスピードを徐々に落とし──停止位置を確認して足を止める。

僅かにつきつきとした痛みの残る足をレールに預けながら息をつくと、背後に警笛が鳴って俺は顔を上げた。



「20000」



──刹那、振り返りかけた髪を吹き散らす風と轟音を裂いて届く声。

追い越して行くグレーのスーツに包まれたその体が不意に傾き、サイドスローの動きでこちらへ右手を振った。



「・・・っと、」



その手が放ったのは、現在開幕中のプロ野球の硬球──ではなく、奴の体に引かれたラインと同じ赤い色を
した冷たい炭酸飲料の缶。

外気の高さに水滴を浮かべるそれに目を凝らすと、そこには銀色のシール──一体どこから剥がしたのか、
車載機器の検修完了の日付を示す『武蔵丘車両検修場』と印字されたラベルが張り付いていた。



「──10000系!」



その真意はすぐに了解されて、俺は見る間に小さくなっていく10000系の背中に堪らず声を投げ返した。


振り向かないその背中は、たださよならを告げるようにシルバーアッシュの髪を立てた頭の横で手を振る
だけで──やがて見えなくなった。



「・・・待ってる、よ・・・」



一人呟いて、掌に残された缶を頬に当てる。

上気していた熱が引いていくその心地良さに、俺は目を閉じてもう一度繰り返した。



「待ってる」



走ると響く足の痛みと、冗談ではない本当の甘えを抱えて──今夜武蔵丘で。


開けると中身が溢れ出してしまいそうな缶を懐へ仕舞い込み、俺はブレーキを解除してまた走り出した。




(完)



───────────

はわわわわー・・・。 甘々・・・です。コーラだけに。(←いや、全然上手くないから)


という訳でしおりさんの日記に掲載されていた「石を踏んだ20000系」から妄想を派生させて書いた
お話でした。 素敵な情報有難う御座いましたー!

しかし何しろ私は実際その場に居合わせた訳ではないので、その時直後に10000系が通ったのは
事実らしいのですが、それが前から来たのか後ろから追い越していったのかはよく分からなかったので
勝手に都合良く解釈してみました、よ。

そしてまた武蔵丘かよ! という事で。
先日の電車フェスタの時から描いている夢がまだ消えません。二人の逢引場所はここしかないぜ。


10000×20000カップルはいわゆる「リーマン」ジャンルのような大人な関係〜という設定が自分の
中にはあったのですが、結局こんな夢見る少年のようになってしまいました・・・。(笑)

20000系はややアレコレ考えを巡らせて企んだりもしそうですが10000系は天然だと思います。
天然で20000系をあわあわさせて、でも自分はそんなつもりでいた訳じゃないからそれを見て自分も
あわあわしてそうです。

そう考えると結局二人ともへタレなんじゃないかという気もします。 へタレリーマンカップル。


・・・お疲れ様でした。(←強制終了・笑)