それは、2008年8月28日のこと。






  雷親父じゃないけれど 






横殴りの雨と地響きに揺れる空気。

その中で殆ど意味を成さないビニール傘を片手に、俺は吾野駅へ向かう線路を歩いていた。

この地を走る西武秩父の奴は雨に弱い。土砂崩れなど頻繁で、同じような山間を走る身としては他人の心配をしている
場合ではないのかも知れないが──それでもやはり心配する気持ちに足を止めることはできず、こうして作業服をびしょ
濡れにさせながら歩いている。


辿り着いた屋根の無いホームの端へ上がり、そのまま足を進めようとすると──雨の糸でぼやける視界に、ベンチに座る
青い背中が見えた。

その背は僅かに屈められて、背もたれ側にある左手の甲が肩の辺りまで持ち上がっている。
雨の音で近付く足音に気付かないのか背を向け続けるその影に、俺も相手が誰なのか確信が持てぬままに歩み寄り──
やがて分かったその背中に声を掛けた。



「西武秩父」



俯いていた顔が上がる。僅かに左右を見回してから、その顔はこちらを振り返った。



「秩鉄──」



何故かほうっと、その口は安堵のような溜め息を零す。

訝しみながら傘を閉じて更にそちらへ歩んで──俺はその意味を悟った。持ち上がっていた西武秩父の左手の下には、
先刻の西武秩父よりも更に俯いた池袋の頭があった。



「池袋」



名を呼んだ刹那、岩を砕いたような雷の音が辺りに響き渡り、ホームと屋根がビリビリと揺れた。

ひぃっ、と池袋が頭を抱え、その身を縮こまらせる。



「大丈夫だって」



笑みを浮かべながらその正面にしゃがみこんで「ほら」と顔を上げさせると、その頬に擦ったような黒い跡が付いていた。
注意深く見ると前髪も所々焦げたように黒ずみ、濡れた制服にも同様の黒い跡が点々としている。

呆然とした眼差しで俺を見下ろしてくるそんな池袋の姿に、俺は手にしていた傘を置いて両手でその肩を掴み直した。



「・・・どした?」

「──落雷で遅延出したんだってよ」



問い掛けても唇の動かない池袋の代弁をするように、西武秩父が答える。

落雷、遅延。雨続きのこんな気候ではそれも致し方の無い支障に思えるが、それでも池袋は今までに見た事も無いほどに
憔悴していて、俺はやはり本人に問い直した。



「そりゃ大変だったな。どっか辛いか? 怪我とかしてねェか?」

「・・・会長に・・・」



問いの答えには当てはまらない単語が、乾いた唇から零れる。



「堤会長に・・・合わせる顔が無い・・・」



それだけ言うのもやっとのような状態で、池袋は再び響いた轟音にまたも細身の体を竦ませる。

傍らの西武秩父を見上げると、奴は「さっきからこればっかだ」と呟いて、その長身を背もたれに預けた。


堤会長に合わせる顔が無い。そんな懺悔の言葉を聞くのは珍しくない。

人身事故、車両トラブル、信号故障・・・俺達が止まってしまう理由は様々あるが、その度に池袋が真っ先に口にする文句は
いつだってこれだ。何はなくとも堤会長、そんな真っ直ぐさを──慌ただしげにしている中でも呑気な俺は可愛らしいと
思ってしまうのだが。



「この天気じゃ仕方ねェだろ。会長さんも許してくれるって」

「駄目なんだ!」



突然張り上げられた声に、雷でも竦まなかった俺の体はびくりと震えた。



「駄目なんだ・・・落雷で、よりにもよって停電なんて・・・」



俯いた頭を抱え込んで、涙交じりの声がうわ言のように言葉を紡ぐ。

俺達が止まる様々な理由、その中でも池袋は「停電」という単語を一際大事そうな色で口にした。



「電気だけは・・・決して切らしてはならんのに・・・」



まぁ、俺達は鉄道と言っても「電車」だからな。

──言おうと思ったけれど、池袋の意味しているものはそんな簡単な問題ではないように思えて、俺は黙って言葉の続きを
聞いていた。



「堤会長が・・・救ってくれたのだ。電気の届かなかった俺を・・・」

「──あぁ・・・」



いつだったか、池袋から誇らしげに聞かされた話を思い出す。

まだ奴が「武蔵野鉄道」と呼ばれていた時代、電気料金が支払えず(奴は「電力会社に見る目が無かったのだ」と主張して
いたが)送電制限をされ、運行もままならなかった事態を堤会長が現れて救いの手を差し延べてくれたのだと。

だから己にとって、「電気」というのは会長からの恩恵を象徴する何よりのものなのだと。



「──ちょーっと遅延しただけだっつーのに、わざわざ大袈裟なんだよなぁ」

「うるさい! 会長の・・・会長のお与え下さったこの有難みが分からんとは不届き者め!」



流れ落ちる雨だれをあくび交じりに眺めている西武秩父の呑気な呟きに、池袋は涙で充血した眼差しで奴をきっと睨み上げる。

西武秩父は会長の没後に生まれた路線の為、現在の池袋の姿からは到底想像もできぬそんな旧時代の話にはどうにも
実感が湧かないらしかった。


しかしそれでも──池袋は本当に落ち込んだ時、ここへ来る。

新宿系統の奴らも、手本を見せるべき西武有楽町も居ないこのひっそりとした端っこの駅。


西武秩父と俺にだけは見せてくれる顔が、ここにはあった。



「──それじゃあよォ、」



西武秩父から逸らした視線がこちらに向き、俺はその右頬に浮いた汚れを親指でぐいと拭ってやった。

「ん」と一瞬目を瞑り、指の離れたその頬を池袋は自分でも擦り直す。



「その会長さんがくれた電気、今度は自分の力でちゃんと回復させたぞ、ってトコを、この雲の向こうに居る会長さんにも
見せてやんなきゃだなぁ」



振り返り、すっかり暗くなった夜の空を見上げる。稲光の滲むその向こうに、池袋の大好きなあの人も居るのだと示すように
指差すと──辿る視線に光を宿したその頬が、今度は僅かに赤く染まった。



「──なんと、」



光を讃えたその瞳がふるふると揺れる。



「そうか、これは・・・堤会長が与えたもうた試練だったのだな・・・!」



あぁ──と感激に打ち震え、池袋は祈るように両手を胸に重ねた。


そうとは知らず、とんだ失態を。

一人呟いて己の世界に入るように目を閉じてしまった池袋の純粋さに、俺と西武秩父はチラと視線を交わし──
声を出さずに小さく笑んだ。



お前はホント、会長さんが好きなんだな。


そんなお前を眺めているのが俺の幸せなのだという胸の内は──今この瞬間は、少し黙っておくことにしよう。




(完)



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28日の夜、仕事から帰った父が「停電があったとかで帰りの電車(池袋線)が少し遅れてたー」と
話していたのをネタにしてみました。

秩鉄は自分が二番目でも不満は言わなさそうだなぁ。
池袋を丸ごと愛しているのでそれに付随するものも全て受け入れる懐の深さがありそう。 この幸せ者めっ!(>池袋)


秩鉄が西武秩父を心配して来たはずなのにいつの間にか池袋の事ばかり考えているのは別に
置いてけぼりにしちゃった訳ではありません。

ベクトルは「秩鉄→西武秩父→池袋→秩鉄←西武秩父」という感じでしょうか。


要は直通3人皆仲良しって事で。 そうであってくれたら幸せなのです私は。