自然の恵み
ドン、ドン、
終電も済んで底冷えする夜、広瀬川原にある宿舎の扉を叩く拳の音がした。
「はい」
ガチャリ、錆びの浮いた鉄製のドアを開けると、目に飛び込んできたのは俯いた金髪頭。
誰──と迷う必要も無い、それはよく見知った池袋の姿だった。
「水を・・・くれないか」
その右手には空のペットボトルが握られていた。
いつも変わらぬ青いコートの裾には、かすれたような赤黒い染みが点々と浮いていた。
『池袋が人身やった』
西武秩父からそんな連絡を受けたのはまだ明るい昼間のこと。
それによる振替輸送の要請は自分の元には来なかったが、列車遅延は随分と遅い時間まで続いていたらしい。
遠く自身の街でひっそりと傷付いていたであろうそいつの事は当然、こんな夜中でも気には掛かっていた。
「水を・・・くれ・・・」
溜め息のような弱々しい呟きが再び漏れる。
その身を夜風から守るように抱き寄せながら招き入れ、狭い畳敷きの居間に放った古びた座布団の上にその体を座らせる。
俺は石炭ストーブを少し熱めにくべて、水道の蛇口を捻ってコップに一杯、水を汲んで差し出した。
「今日は大変だったみてェだな」
ちゃぶ台にもたれかかる手元にそれを置き、励ますように笑んで見せる。
池袋は何も答えずにコップを持ち上げると、二口、こくりこくりとその冷たい水を飲み下した。
「・・・これは・・・湧き水か?」
ふ、と息をついた口が、またポロリと零すように呟く。
「あぁ、秩父の地下から湧き出た天然水だ」
答えると、池袋は突然その双眸にじわりと涙を滲ませて残りの水を一気にあおった。
「・・・うまいなぁ・・・。」
いつもは減らず口ばかり叩くその口が、驚くほど珍しく賞賛の言葉を紡いだ。
「羨ましいな、貴様の所は・・・」
絞り出すような声で続け、堰を切ったように涙がボロボロとその頬を伝い落ちた。
「一体どうした?」
突っ伏してしまった背を優しく撫でて、囁くように問い掛ける。
ひっく、ひっくとしゃくり上げるその体を落ち着かせようともう一杯水を汲んで差し出すと、池袋はまた素直にそれを飲み下した。
「帝都は散々だ・・・」
震える声が愚痴るように呟く。
「人身事故は起きるわ、地下水は汚染されるわ、災難だらけだ」
コートのポケットから、皺の寄った四つ折の紙切れが出される。
差し出されたそれは、所沢車両工場跡地の土壌検査の結果、土壌汚染と水質汚染が見つかったという報告書だった。
「西武の中心地がこんな状態だなんて・・・堤会長に合わせる顔が無い・・・」
またポロリと雫を落とし、細い指が濡れる目尻をこしこしと擦る。
一途に会長さんを思うその姿は、いつ見ても健気で可愛いと──奴が悲しむこんな事態だというのに、思ってしまった。
「──そこで、だ」
すん、と鼻をすすり、池袋が持参したペットボトルを持ち上げる。
2リットルはたっぷり入りそうなそれを、奴はずいと俺に向けて差し出した。
「不本意だが、貴様に水を分けて貰いに来た」
会長の御仏壇に供える花が吸う、大事な水だ。汚れた水では済まされん。
天然の綺麗な水を、会長に捧げたいのだ。
涙で洗われた透き通るような瞳が、真っ直ぐ俺を見つめて言った。
「この水なら、問題はない。俺が保証しよう」
コップに残った水を、池袋は再度一滴漏らさず飲み下す。
空のそれを見ながら頷いて、その視線はもう一度俺に向き直った。
「汲んでくれるだろう?」
僅かに口元が綻ばせる、その問いに俺も頷いて──受け取ったペットボトルに口ギリギリまで湧き水を詰め、池袋に差し出した。
「こんなんで良けりゃ、いつでも届けるぞ」
言うと、奴はまた少し顔を綻ばせて──
「考えておく」
意気の戻ったその言葉はまたいつもの減らず口を叩く。
しかしツンと横向く池袋の──ストーブの熱で温まったその頬には赤みが差し、その色はまるで強がりを塗り込めるように、
純真さに拍車をかけて俺の胸を刺激していた。
(完)
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なんだか中途半端な終わり方ですみません。
池袋にメロメロになってしまう秩鉄のお話でした。
元ネタは西武のサイトに掲載されていた
「所沢車両工場跡地における土壌調査結果について」という報告書。
帝都が蝕まれていただなんて池袋には大変なショックだったろうなと。
しかも人身もやらかしちゃって踏んだり蹴ったり。
秩父の水は美味しいですよ。何種類かミネラルウォーターとしても販売されてます。
ね、悠兎さん!(笑)