単線に、肩を並べて     第四話






昨夜はあまり良く眠れなかった。
昼間に仮眠を取ってしまったというのもあるが、その仮眠からの寝覚めが──あまりに酷かったので。

眠りから覚めたらまたあんな映像が目に飛び込んでくるのではないかと、俺はただただ恐ろしくて、横になることさえも
拒む体を自室窓際のソファーに預けたまま、濃い目のコーヒーを供に一夜を明かした。


2月9日、午前8時。
池袋駅の改札を颯爽と抜け、5番ホーム手前へ差し掛かった所でふと違和感を覚えて足を止める。

発車待ちをする4000系の白い車両、目にも鮮やかな三色のライン。
正面に取り付けられた方向幕に示された行き先は──『快速急行・西武秩父』。



(行き先表示が──間違っているではないか)



全く、朝からぼんやりしおって。

小さく溜め息をついてその乗務員室へと足を向けかけ──二歩ではっと気が付き、固まるようにその足を再び止めた。



(ああ──そうだ、そうだった。ぼんやりしていたのは、俺か)



8時6分池袋発、快速急行秩父鉄道直通三峰口・長瀞行きは西武秩父止まりの運行に変更。

その申し送りは始発の前に受けていたというのに、つい長年の癖でその座りの悪さに気を取られてしまっていた。



(馬鹿馬鹿しい。昨夜眠れなかった理由をもう忘れたか──)



一人自嘲気味に笑い、しかしその笑いをすぐに収めて仕事の顔に戻る。


そう、仕事。
俺はただ仕事に忠実な思考を働かせただけだ。
毎日、毎週、定められた運行を確実に執り行っていく、俺という存在に与えられた使命。


ただ、それも──「今日」という日に限って与えられた特別な仕事にも対応する、そんな柔軟性を欠いてしまったという
点では、仕事を忠実にこなしたとは言い切れないけれど。


やがてホームを出発したその列車を見送りながら、俺は冬の冷気にかじかむ両手でパンパンと頬を打った。

こういう体育会系の気合いの入れ方というものはあまり好きではないのだが、そうも言っていられないほどに今日の俺は
少しおかしくなっているらしいので。



「──よし、」



双眸にきりりと力を込めて業務に戻るべく振り返ると、その視界に──行く手を塞がんばかりにぬぼっと佇む長身の男が
飛び込み、その影にぶつかりそうになった俺は思わず「うわぁっ!」と情けない声を上げてしまった。



「──おっと。・・・悪ィ悪ィ、今声掛けようと思ったんだけどよォ」

「・・・な、なんだ西武秩父か。・・・ったく、驚かせおって・・・!」



池袋駅に居るにはやや珍しい、しかしよく見知ったその顔にほっと息をつく。



「一体何だ、こんな所で」

「あぁ、さっき出た快急──西武秩父止まりになった、ってのがちゃんと案内出てんかなーと思って電光掲示板見てたら、
お前がホームに居んのが見えたから」

「・・・そうか」



こいつもそれなりにしっかり仕事をこなしているのだな。

上から目線でそんな事を考え──そう言えば昨日の事故の知らせも西武秩父の迅速な対応によるものが第一報だったっけ、
などとふと思い出した。

乗り入れ路線として伝えるべき情報を冷静に寄越した西武秩父。
それに動揺し──しかしそんな様子を悟られまいと一人で抱え込んだ挙句要らぬ遅延なんぞを起こしてしまった自分。
その事実をまた冷静に報告した新宿。 やっと持ち直した俺。



(──は、)



思わず力無き笑いが零れた。

駄目になっているのは、俺ばかりじゃないか。
口先ばかり達者で、理想ばかり高くて。 その実何もできちゃいないのに。



「池袋?」



俯く俺を覗き込むように、西武秩父が身を屈める。



「お前なんかおかしいで、昨日から。秩鉄も心配してたぞ」



さらりと口にされたその鉄道の名に、俺は反射的に顔を上げた。



「あいつが何だ。心配などされる覚えはない!」



日頃の癖でつい反射的に声を荒げる。
次いで、むしろ自分の方が奴を心配するべきなのに──などという考えも、ちらりと頭を掠めはしたけれど。


そんな俺の性質に慣れた西武秩父は小さく溜め息をつき、表情も変えず言葉を続けた。



「昨夜さ、秩鉄ン所に行ったよ」

「・・・だからどうした」

「あいつ、全身傷だらけの包帯だらけで・・・」



その言葉に昨日見たニュース映像がフラッシュバックし、逃れるように顔を背けて目を瞑る。



「それでも奴ァ起き上がってよ、言ったよ。池袋にも──迷惑掛けたから、謝りたかったって」



お前に、会いたかったって。


目を開く。

視界の端に映る奴の顔に、いつもの悪戯っぽい笑みは浮かんでいなかった。



「お前が薄情だなんて言わねェさ。何か様子おかしげだったし、まぁお前もそれなりに──ショックだったろうしよ」



否定はしない。

いくら隠したつもりでも、奴には悟られて当然だろう。
新宿や他の奴らと違い、実質一本に繋がったような最も近しい路線だ。



「でも、そんな風に気持ちが揺れんなら──その『揺れてる』っつー事をよ、無視すんなって」



一旦言葉を切り、少し考えるように唇を噛んでから──奴は続ける。



「分かるよ。お前が西武以外──いや、自分以外認めたくねーっつうンはさ。けどよォ、そうやって排除して排除して、
それでどうすんだよ。じっくり向き合いもしねェで、見なきゃいけねェモンも見えンくなって」



説教されるだなんて屈辱的で大嫌いなのに、何も言えない。

それは──その言葉が確かに、今の俺を言い当てていたからか?



「胸に引っ掛かる事があんならちゃんと認めねェと、確かめねェと──苦しいだけだで」



いささか語調を荒げながら一息にまくし立て、しかし最後はごくごく静かに、西武秩父の言葉は終わった。

結局殆ど視線を交わすことすらできず、36分発の特急改札へ向かう奴の背中を──それでも俺は繋ぎ止めた。



「・・・俺にどうしろというのだ」

「あ?」



俯きながら呟いた俺の声に、ポケットに手を突っ込んでゆったりと歩を進めていた西武秩父がくるりと顔を振り向ける。



「・・・貴様の言っている意味がよく分からん・・・」



俺が秩父鉄道に対して心を揺らしているだと? 何の為に?

見なきゃいけないもの? そんなものが俺に存在しているのか?

胸に引っかかる事──何なんだそれは? どうしてお前はそんな事が言えるんだ? お前は、俺の中に一体何が見えているんだ?



「もう・・・俺は自分の事すらも、よく分からんのだ・・・」



頭の中がぐちゃぐちゃになり、視界が滲む。

頬の辺りにじわりと熱が生まれ、何かがこみ上げてくるように喉が詰まり、それを押し遣るようにぎゅっと目を瞑ると──瞼の端から
ぽとりぽとりと雫が落ち、青いコートの裾辺りに群青色の染みを作った。


何だこれは。何故涙など出てくるんだ。


あいつの為に泣いているのか? 自分の為に泣いているのか?
それももう、何も分からない。何も考えられない。


零れる雫を拭おうと袖口で目を覆うと、遮られた視界にぽっと奴の笑顔が浮かび──それを思うとどうしてか更に涙は溢れてきて、
俺は困惑した。



「池袋──」



西武秩父の足音が戻ってくる。

涙の理由は聞かず、長身の奴は己の首筋へ顔を埋めさせるように、俺の頭を片手で抱き寄せた。



「──あー・・・あー・・・わる、悪かったよォ・・・」



宥めるように頭をポンポンと撫でながら、奴はいささか焦りを帯びた声色で言う。



「お前があまりに鈍いし頑固だから、これじゃあ秩鉄もお前も不憫じゃねェか。だから──」



困ったように頭を掻いて、奴は早口に弁解する。



「ちっと気付かせてやろうと思っただけだっつーのに・・・まさか泣くほど好きだったなんて思わんかったで」



好き? 好きだと? 誰のことが?


心の中では悪態をつきながら、それでも俺の頭には最早一人の男の顔しか浮かばなかった。

俺は奴の事が好きなのか? あんな汚らしくて、粗野で、西武の格式には到底及ばぬようなあんな奴が?



(まさか。そんな訳が・・・)



──しかし思い返してみると、確かに言うほど嫌いではなかったかも知れない。

奴が頼みもしないのに顔を見せに来ると、うざったかったけれど、退屈はしなかった。
ふざけて小突いたりしてくるその手も、少しは嬉しかった。


そこまで自ら俺に関わろうとしてくる奴なんて、今まで居なかったから。

いや──居たのかも知れないけれど、少なくとも俺に、それを受け入れようと思う気持ちが湧くような奴は居なかった。



(どうして、あの男の事は拒まなかったのだろう──)



西武秩父の肩に額を預けると、閉じた視界に初めて会った時の奴の姿が甦る。


油にまみれた手。端を汚された堤会長のお写真。
怒り心頭の俺をよそに、西武秩父とは何だか妙に通じ合っていて、それが──その時から、気に入らなかったんだっけ。


俺だけ置いてけぼりにされたような心持ち。

その寂しさには慣れていた。俺の領域にずかずかと入り込んでくる相手を自分から切るのは慣れていた。
けれど──端っから相手にされず、抱える準備の出来ていない寂しさをいきなり投げつけられる経験は──殆ど無かったのだ。


だから俺は拗ねた。 本当は自分の計算外だった展開に怯えていたのかも知れない。
こっちを向いて欲しくて、構って欲しくて──でもそんな事を素直に言えるはずはないから、不必要に奴を罵倒した。

大概の奴はそれで嫌な顔をする。俺とはもう付き合いたくなさそうな顔をする。
そうすると俺は勝利したような気持ちになって、孤独も何も苦ではなくなる。


けれど奴は怒った。真っ向から俺に突っ掛かった。

「こんな奴には付き合うだけ無駄だ」、誰もがそんな諦めで身を引くところを、奴は引かなかった。
馬鹿にされた事を素直に悔しく思い、それは間違っているんだ。本当の俺を見ろ、と──その誇りを、俺の目に確かめさせた。



(奴は──たくさんの「初めて」を俺にくれたんだ)



そして俺は心のどこかで、それを戸惑いつつも楽しく感じていたのかも知れない。
認めたくはないけれど、それは通り一般には(少なくともこの西武秩父には)「恋心」と呼ばれるものだったのかも知れない。



(ああ・・・そうだったのか・・・)



それに気が付くと、なんだかまた涙が出てきた。

西武秩父のコートにそれを吸い込ませてしまうのも無視して顔を押し付ける。すると奴もそれに拘泥する様子は無く、俺の頭を
再び柔らかく撫でた。



「泣け泣け。苦しい時は泣いちまった方が楽だィなァ」



その声に励まされるように、俺は泣き続けた。


思えば事故の知らせを聞いた時も、あんなにショックだったのに俺は泣けなかった。
心の奥に何か塊が詰められたような、言い表せぬ苦しさがあったにも関わらず、俺は泣けなかった。


涙を流すに相応しい理由を──己の中に見出せなかったから。

「乗り入れ路線だから」、そんな理由では弱かった。


こうして西武秩父に気付かされなかったら、俺はきっとどうにかなってしまっていた。
募る苦しみを誰にも言えず、どうしたらいいか分からず、益々一人で抱え込んで──やがて許容し切れなくなって壊れていた筈だ。

それを想像すると、少し体が震えた。



ホームに発車メロディが響く。
数分前に出た特急に続き、もう一本の快速急行──やはり西武秩父止まりに行先を変更した列車が7番ホームを出発した。



「──池袋、」



去りゆくその列車を真っ直ぐに見送りつつ、西武秩父が口を開く。



「秩鉄は、きっとすぐに復旧して見せるで」



その声色は自信に満ちていた。
自分の事じゃないくせに。さっきは「包帯だらけ」なんて、脅かすような発言をしたくせに。

でも──何故か有り得ない気はしなかった。
俺も、そう信じたかったからか?



「直通も、きっとまたすぐに走れるようになっから。そしたら、俺が連れてってやっかんな」



秩鉄の所まで。


俺の背に添えられていた西武秩父の掌に、ぐっと力が籠もる。

その温かさに、心強さに、俺は何度も頷いた。




>>第五話へ



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自らの思いにやっと気付き、向き合った池袋。

恋のキューピッドはやっぱり西武秩父でした。
でも西武秩父は密かに池袋の事も好きだったりするので、まぁそれゆえのキューピッド志願でもありつつ
やっぱりちょっと可哀想だったりします。池袋は口に出さないだけで秩鉄の事が好き過ぎるから。


そんなこんなで、当初は東上と池袋に口喧嘩をさせてその中で池袋が自分の思いに気付く、という
展開を考えてもいたのですが西武秩父が意外と男前になったので純粋に西武組だけの話にしてみました。

という事で東上はもう出番無いかも知れないです。
出てきてもきっと可哀想な役回りになるだけです。秩鉄はとうの昔に池袋が好きになっているので。(東上涙目)


次回はまた秩鉄視点で書けるといいなーと思ってます。

まだもう2、3話続きそうな予感ですが今しばらくお付き合い下さいませ・・・!